『センセイ』文化を見直そう【全文】

みなみ整形外科クリニック 三浦由太


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1 はじめに

 テレビや新聞で医師や大学教授が「さん」づけで呼ばれている。 あるMLで、ある大新聞社に勤める新聞記者と医師の敬称問題 について議論になって、指摘されて気がついた。しばらく前から、 そうなったらしい。

 その記者(仮にA記者とする)が言うには、医師に対する敬称 として「先生」を用いるのは、医師の権威主義的意識に基づく もので、そういう敬称を用いることが、患者が医師にものも言え ないような雰囲気をつくり出すのであり、患者を大切にしようと するほどの医師ならば、すべからく「さん」づけに改めるべきなの である。

 私は別に偉ぶるつもりはないが、初対面の人に名刺を渡して 「さん」づけで呼んでくださいとは言えない。秋田でそんなことを 言ったら、何かおかしな宗教団体の頭の変な医者かと、勘違い されそうである。医師に「先生」をつけるのは、日本語として自然 なのである。

2 伝統ということ

 すべて人間の社会には伝統がある。伝統のうちには、非合 理的迷信的伝統もあり、残すべき合理的伝統もある。

 相撲では、相撲をとる前に塩をまいたり四股を踏んだり煩雑 な儀式がある。あれを「東コーナー朝青龍、西コーナー栃東、 両者見合って、ハッケヨイ」とやったのでは、さぞかし味気ない だろう。四股を踏むのは、一種の準備運動であるし、相撲は 数秒で勝負が付くことが多いから、観客のほうも次から次へと 切れ目なしに緊張することになって、かえって盛り上がりに欠 ける。力士の立ち居振る舞いやにらみ合いを見るのも、相撲 観戦の楽しみの一つなのである。

 私の出身大学では、手術患者が手術室に向かうときには、 手のすいている看護婦は、全員総出で見送る習慣があった。 何か看護婦に指示を出そうとしても、そのときは病棟が空に なるので非常に困る。実に無駄な虚礼だと思っていた。手術 患者の取り違え事件を知ったとき、あれは必ずしも虚礼では なかったと気づいた。手首に識別カードなど巻いても、一人の 人間の確認ではミスが起きる。看護婦全員で、「誰某さん、 いってらっしゃい」と手を振って見送れば、患者の取り違えは 非常に起こりにくいだろう。

 伝統のうちの間違ったもの・不要なものと、正しいもの・長年 の経験の積み重ねによる人間の知恵というべきものをよりわけ て、正しいものを残し、間違ったものを訂正していくことは、伝統 の中で生まれ育ち、それをもとに創造を積み重ねていかなくて はならない人間にとって、非常に大切なことである。

3 国語教育の重要性

 敬称の変更で人間関係は変わるものではない。A記者によれば、 医師が初対面のときに「さん」づけで呼んで下さいと患者に親しみ を込めて言いさえすれば、それが親近感をもたらすことにつながる のだが、自分が患者になった場合のことを想像してみても、そんな 医者には親近感どころか警戒感を抱いてしまうだろう。

 敬称を新聞社が勝手に変更してよいという考えには人間関係よりももっと深い意味がある。それは長い歴史をかけて築き上げてきた文化に対する軽視であり、国語を真剣に学ぶ意義に対する無理解を意味する。

 国語の学習は想像力を養うことにつながる。小説をたくさん読むと、 作中人物の体験を自分のことのように想像する力が養われる。そう すると、自分で体験していないことも、想像によって体験したように 感じることができるようになる。想像力が養われると、自分では脊髄 損傷になったことがなくとも、脊髄損傷の患者はどんなに悔しい気持 ちでいるだろうかとか、想像によって患者の身になって考えることが できるようになる。

 そして、人間の精神の背骨が形成されるのも、国語教育を通じて なのである。人間にとっての究極の困難な局面というものは、歴史 上、そんなに幾度もあるものではない。しかもそういうまれな局面で 不屈の精神力を発揮できた人間はさらにまれである。数千年の間 にわずかな人間のみが模範を示しえたようなことを学ぶには、数千 年前からの古典を学ぶ必要がある。

 チャーチルは、ナチスドイツとの困難な戦争の中、幾度もプルタル コスの「英雄伝」を想起して勇気を奮い起こしたことだろう。イギリス のエリートは、その精神の背骨にギリシア・ラテン語の教養をたたき こまれているからである。イギリスと同様、二千年以上昔の自国語 の文献がない日本人の精神の背骨は、漢文によって養われてきた。 漢文を必須教科からはずすことは、日本人の精神の背骨をはずす に等しい。

4 学問的思考法と公式主義

 ここで、学問的に国語を取り扱う方法とA記者の手法との違いに ついて、触れておこう。

 ペニシリン耐性菌の知られていなかった時代には、「肺炎にペニシ リンが効く」ということは一つの教科書的原則だった。そうした中で ペニシリンが効かない症例を見つけたとき、原則から 出発する医者は「ペニシリンが効かないから肺炎ではない」という ふうな誤った結論を導き出してしまう。具体的個別的患者の存在 を認め、そこから「ペニシリンの効かない肺炎」というこれまで知られ ていなかった特殊的疾患概念を導き出すべきなのである。そこから 耐性菌についての研究が進み、ペニシリンに代わる抗生剤の研究 も進むことになるのである。

 A記者のやり方は、具体的個別的なものから出発するのではなく、 原則から出発する。つまり、「『さん』は立派な敬称である」という、 それ自体は「肺炎にペニシリンが効く」という原則に劣らない正しい 原則のほうを、現に医師を先生と呼んでいる具体的個別的日本語 の使用例よりも優先する。そして、その原則を「さん」を敬称として 用いるのが正しい用例を越えて、「先生」を敬称として用いるのが 正しい用例にまで拡張する。

 現実を無視して原則を押し通すやり方は、結局破綻する。A記者 自身、医師に電話をするときには、つい「先生」と言ってしまうそう である。

 彼にとって、医師を「さん」付けにすることは新聞社の決めた原則 である。ところが、現実には医師に対しては「先生」が用いられてい る。自分でもつい「先生」と呼んでしまう。なぜそうなのか、それが 日本語の特性なのだということに彼は思い至らない。彼にとっては、 新聞社が勝手に決めたことのほうが、学者が現実の国語の用例 に照らして考え抜いて合理的に決めた国語の使用法についての 辞書よりも大切である。彼にとっては読者がみんなで医師を「さん」 付けで呼ぶようになれば原則と現実が一致するようになるのであり、 辞書のほうが変わるべきなのである。彼にはそういう具体的個別 的事例を無視したやり方が実際に「先生」を使用している現場に どんな混乱をもたらすかを想像する想像力が欠けている。

 看護婦が各部屋を回っているとき患者の容態が急変したとしよう。 詰め所に医者は誰と誰がいるかわからないけれど、とにかく医者に 緊急に来てほしいとかいうときに「センセー早く来て!」は便利であ る。「さん」は名前のわからない相手には使えない。実用上の便利 さがあると、言葉はなかなか消えないものである。

 結局、医師を「さん」づけにするなどという原則を守るコチコチの 石頭では世の中を渡っていけないから、A記者も新聞社の内規には 従わず、自分で電話するときには勝手に「先生」を使うことになる。

 彼がJRに勤めていたら、今回の尼崎の事故と同様の事故を起こ す運転士になっていただろう。運転士には、100キロのスピードを 出したときに乗客にどんな混乱と恐怖が生じるかを想像する想像力 が欠けており、新聞社が現実を無視して勝手に決めた敬称の社内 規定みたいな、守らなくともさしつかえない、むしろまじめに守ると うまく世渡りできないような恣意的規則と、学者が長年の研究によっ て割り出した制限速度という合理的規則との違いを、区別することも できなかったのである。

 事故を起こした運転士とA記者に共通な、1.想像力の貧困、2. 学問的真理と恣意的意見との同一視、3.規範意識の欠如という 三徴候を呈している人が増えていることが、最近、日本で次々と 起こる重大事故・事件の大きな要因であるように思えてならない。

5 古典教育の重要性

 国語審議会では、日本語が国際社会に対応していけるようにと 考えて、日本語をあれこれといじりたがっているらしい。

 英語は世界中に広まっている。各地に各地なりの方言ができて しまうのは避けられない。そこで規範としての英語をどの国の英語 学習者も学ばなくてはならない。それが、たとえばシェークスピア とかになるわけである。そして、そういう英語を身につけている人 は「古い」と評価されるのではなく、「きちんとした英語」を見につけ ていると評価される。

 日本の場合どうだろうか?

 雑誌で読んだ話だが、ハワイから日系人が観光旅行で来日した そうである。日系3世か4世だろうが、しっかり先祖伝来の日本語 教育を受けていた。

ツアー客の一人が、キャベツを見て、これは日本語でなんと言うの かと、日本人ガイドに質問した。ガイドが「キャベツです」と答えたら、 年長の日系人は「ガイドさん、キャベツはcabbageの日本語読みで す。正しい日本語では、cabbageは玉菜(たまな)と訳すのです。」 と、たしなめたそうである。

 こういうとき、日本の若者だったら、 「おっさん、古いんだよ。いまどきキャベツを玉菜なんて言う日本人 なんかいねーよ」という反応になるのではないだろうか?

 ハワイからきた日系人のツアー客たちの反応は、 「日本の若い人も知らないようなきちんとした日本語を知っている」 という尊敬に満ちた反応だったそうである。

 日本語が国際社会に対応していけるようにするためには、日本 から離れて何十年たっても日本語を話す人同士が、意思疎通でき るようにということを最大の主眼にしなくてはならない。そのために は、国語審議会が恣意的に国語をいじることよりも、きちんとした 古典教育をすることである。

 それこそが、しっかりした規範意識と伝統文化を尊重する意識 を育てるのであり、日本語が国際化して世界中で日本語を学ぶ 人たちが増えても、いつまでも日本語を話す人同士意思疎通が できるために、大切なことだろう。

6 ことばは単なる記号ではない

 「先生」を「さん」と簡単に取り替えられるという考えは、言葉が 歴史的社会的に形成されてきたものであるという現実を無視して いる。ことばは単なる記号ではない。

 無人島に漂着した二人が、相手を僕、自分を君と呼んだり、頭 を足と呼んだりすることは可能だろうか?だが、そもそも自分と相手 を区別したり足と頭を区別したりすること自体が、歴史的・社会的 に形成されてきた言語に基づいて認識している。そのことは日本語 と英語を比べてみるだけで明らかである。頭は英語のheadとほぼ同 じ部位を指すが、日本語の「あし」は大腿、下腿、および足首から 先を含むのが普通の用い方であり、英語のfootの指す足首から先 という範囲とは異なる。股から下を「足」と認識し、単数と複数を区 別しないなら、それを「頭」と呼ぶことに変更しようが、それはその人 が意識していようといまいと日本語的認識をしている証拠である。

 「文は人なり」とか「書は人を表す」と言う。長い人生を通じて 形成されたある個人の言語は、その個人の精神の構造を深い ところで規定しているのである。

7 言語能力と認識能力

 言語においては、対象-認識-表現が分かちがたく結びついて いる。そして、この各段階で話し手(書き手)の個性が影響せざる をえない。人間は認識の段階で対象をそのままに受け取るのでは なく、社会的歴史的に形成された言語によって認識する。そして、 個人の認識は、その個人の経験や学習によって次第に成長する。

 認識できるということは言葉にできるということである。咲いている 花の名前を知らないと認識もいい加減である。春に木に咲く美しい 花を桜と覚えた人は、梅もアンズもサクランボもリンゴも桜と思うか もしれない。それを識別できるには訓練が必要である。桜も詳しく 識別できる人は一目でソメイヨシノと吉野桜、山桜などを区別する。

 だから言語は誰もが同じように使える道具ではなく、対象を 認識する段階から各個人の経てきた社会的訓練が影響する。 その表現には話し手個人の人生経験や読書、学識、思想、性格、 等々の個性が刻まれるのである。

 「先生」を「さん」に取り替えようというのは、方言を強制的に 標準語にしようとしたり、漢字の使用字数を強制的に制限したり、 実際に使っている人を抜きにしてさまざまに日本語がいじり回さ れて来た歴史的経過と同じ系列に属する。

 学習院大学国語学名誉教授の大野晋氏は、こう述べている。 「言語はただ道具として存在しているものではなく、物や事と即応 する精神的組織です。精神を形成する組織を、わけのわからない 形で強制的にいじることは、物や事を認識するはたらきを、実は 深いところでいじることです。言語の体系が傷つくと、物や事を それなりに組織的に動かし運用していくはたらきに歪みが生じ、 全体が雑になるのです。」

「 ここで、私は言葉と事実の認識との関係のお話をしたい。

 最近、こんな話を聞いたのです。このごろ女子中学生が妊娠 するというケースが少なくない。その生徒たちは、たいてい、私は 子供を生みたいと言うそうです。

 どうしてそうなったのか、その人たちは何を考えているのか、 少し様子を聞いてみようと、記者が妊娠出産した中学生たち にインタビューを試みた。そこで一つの共通したことに気づいた そうです。それは、自分が相手を、どんなふうに好きだったから こうなったのだとか、自分はこう生きたいのだとか、これからは こうしていくつもりなのだという、事柄の成り立ち、進行状態、 自分の将来について、何も語れないことがその中学生たちに 共通していたというのです。

 その中学生は人間として自然な欲望・衝動のままに生きて いるだけで、自分の意思、見込み、事態の把握がない。明確 に認識していないことを、はっきり表現することはできない。

 正確に認識できていないことは、言葉にすることができない のです。

 事実の認識力の低下は、最近の事件によく示されています。 たとえば、大きな銀行が三つ合併しました。ところが、コンピュー ターが初日から動かない、会社が合併して一つのシステムに 統合するときにはどういうことが起こりうるか、それにはどういう 手を打たなければいけないか。責任者は、必要な予行テストも 満足に行なわなかった。

 衛星の打ち上げも失敗・・・ウランをバケツで運んでいた・・・
原子炉のひび割れ事故を十年にわたって隠蔽・・・

 つまり日本人のトップクラスの人々ですら、精密を必要とする 組織的な行為を正確に把握してそれに対処し、仕事を遂行する ことができない。

 このような最近の社会現象に現れた、文明の正確な、精しい理 解、把握力に欠けた日本人の行動は、私の見るところでは、実は 日本語を正確に、的確に読み取り、表現する力の一般的な低下 と相応していると思うのです。言語の能力が低く、単語の数が貧弱 では、文字を通して事態を精確に理解も表現もできない。大学生 の読書離れの底には、今日の社会生活に必要な言語能力が、 高校までに養われていないという現実があるでしょう。」

8 規範について

 法則とか規範のうちにはいくつかの種類がある。一つは自然法則 である。地上の物には重力が働くとか、昼のあとには夜が来るとか、 そういうことは人間にかかわりなく起こることであり、王様だろうが 乞食だろうがこの法則に反することはできない。人間社会の規範 も自然法則を無視しては守りようがない。

 酒好きの患者がこのまま飲み続けると短命であろうというような とき、医師としては禁酒を指示するだろう。患者は禁酒して長生 きするか、酒を楽しんで短命に終わるか個人の自由意志で選択 することになる。長生きしたいという意思と酒を飲みたいという欲望 とどちらが強いかという葛藤が生じることになる。だが個人の自由 意志として飲酒の欲望に打ち勝とうとするならば、自分としてこの 規範を守るための努力を重ねることになるだろう。これは個人的 規範である。

 そのほか友人同士の約束、道徳、法律、等々さまざまな規範が ある。

 長年の習慣が無意識的な規範となることもある。子供は家族の 中で同じ種類の実践を繰り返していく。通常親は規範を育てよう として、いわゆるしつけを行っていく。これは親として望ましいと思う 種類の生活規律を育てていこうとしているのである。子供の望んで いるままにさせておく、自由放任の態度をとった場合でも、子供は それなりに同じ種類の実践を繰り返し、やはりそれなりの生活規律 を育てることになる。

子供の要求するものは何でも買ってやるという態度をとると、子供 は自分の意思はすべて実現するもので、もし拒否されたら泣いて あばれればいいという生活規律を作り出すだろう。こうした幼児期 からの生活習慣は第二の天性とも言うべきものであり、これが家 庭外の一般社会で通用しないとなると、自分の本来の欲求が満 たされないことになり、社会的規範は外的強制として立ち現われ ることになる。

 言語規範も、外的な約束事として学ぶこともできる。外国語は もちろんだが、母国語でもある程度以上のレベルになると学校で きちんと学ばなくてはならない。だが、母語の言語規範の根本は 幼児期から身につける習慣である。

 規範は、すべて他からの拘束と言うこともできるが、この拘束に 対して必ずしも不満や抵抗を感じるわけではないし、また、いつ でも拘束を意識しているわけでもない。壁に垂直に布団を敷い て寝ることができないことに不満を感じて、地上の重力を外的な 強制と認識する人には、私は今までお目にかかったことがない。

9 母語ということ

 明治政府の方言撲滅政策が、いかに言語学的に非合理的で 社会的に弊害をもたらしたかは、井上ひさし氏の小説「吉里吉里 人」(新潮社)に詳しい。学校教育である民族の言語をそっくり入 れ替えることができるなら、とっくの昔に世界が一つか二つの言語 で統一されていただろう。

 人間は、父や母を選ぶことができないように、母語を選ぶことは できない。家族や親戚や近所の大人たちとの会話および子供たち との遊びを通じて身につく言語は、その個人にとって皮膚であり、 血であり、肉である。それを無理やりに教育・マスコミ・政府の通達 などによって変更するならば、その社会的影響は甚大である。

10 敬語とは何か

 日本語の敬語表現は、身内を謙遜し相手を尊敬するのが基本 である。そのため、「奥の間」などない長屋住まいの熊さんの奥さん も「奥さん」と呼んだりして、「真実」からかけ離れたような言い方を することがある。

 しかし、これが日本語の敬語の本来のあり方なのである。それは 「真実」に忠実でないという意味にはならない。作家が心血を注い で書き上げた小説を「拙著」と呼んでも、それは本当に「拙い著作」 という意味ではない。それはウソを言っているのではなく、「自分の 著作」の謙譲表現であり、ソトとウチを尊敬と謙譲で表現する日本 語として完全に真実に忠実な表現なのである。

 敬語は実際のところ、敬意を表すというよりは、ソトとウチの意識 を表現するものである。日本語では、ソトのものを敬語で表わし、 ウチのものを謙譲語で表わす。そして実際に尊敬しているものも、 その敬意の程度に応じて自分から遠いものと表わすのである。

 敬意を抱いていない相手に敬語を使うことがおかしいというのは、 敬語の本質を理解していない。敬語はしばしば初対面の相手 に対して用いられるが、初対面の相手が尊敬に値するかどうか、 どうして判断できるだろうか?

 もちろん敬意を抱いている相手にも敬語を使うが、より本質的に は、自分にとって親しくない相手と会話しなくてはいけないときに、 相手に不快感を抱かせないために使う言葉が敬語である。

11 表現と視点

 画家が桜を見上げる位置から桜を描いたなら、その絵を見る人 は、画家と同じ視点から桜を見るしかない。その絵には桜の模像 と作者の個性と作者の視点が表現されている。

 言語は絵画とは異なる表現ではあるが、言語にもその作者の 個性と視点が表現される。作者のとらえる対象についての表現を することが、同時に作者自身についての表現を伴うことになる。 

 新聞記事にも書き手の視点が表現される。新聞社としては新聞 記事の視点は「公平かつ客観的な」真実の報道であるということに したい。これが敬語を使うときに非常に困るのである。

 はっきり自分と相手が定まっていれば、敬語は使いやすい。日本  語ではとにかく、相手のものは何もかも上等で、自分のものには何  一つろくなものはないと言っておけば間違いはない。1本5万円の 高級ブランデーも、上司にお中元として届けるときは、急に「つまら  ない」ものになる。妻がハーバード大卒の才媛だったとしても、先輩 への手紙には「愚妻」と書かなくてはならない。逆に相手の奥さん が無教養なことで評判だとしても、「あなたの愚妻様が」などと書く  と、悶着の種になる。

 ところが、新聞記事は自分と相手だけの手紙文ではない。誰が  読むかわからない。婦女暴行の容疑者を「御賢息様」と書いたので は、被害者から抗議が来る。「氏」とか「女史」とか「博士」とか区別  するのも女性差別だとか、学歴社会賛美とか抗議を受けかねない。 小学校の先生もノーベル賞学者も同じ「先生」というのも困る。

 だから新聞記事としてはすべて敬称なしにしたいのである。せめて 「さん」で統一できると実に都合が良い。

12 敬称の安売り

 相手を尊敬し自分を謙譲するのが、日本語の敬語体系の基本  である。したがって、敬称が次第に安売りされるのは、日本語として 避けられない傾向である。

 「お前」も、元来は「御前」であり、貴人に対する敬称として用い られていた。しかし、とにかくソトを敬ってウチを謙譲したいのだから、 次第に「お前」が広く用いられるようになる。そうなると、貴人に対し て「お前」とは呼べなくなり、現在では、「お前」は対等ないし目下  の相手に用いられるようになったのである。

 貴人に対する敬称であった「お前」が今では蔑称に近い意味に なっているように、将来、「さん」が蔑称に近いものになり、「先生」 が現在の「さん」のように、広く用いられる一般的敬称になることは ありえるかもしれない。しかし、医師に対する敬称が、「さん」のほう に変化することはありえない。それは古文から現代語への敬称の 変化の大きな流れを見れば明らかである。

13 非合理的規範のもたらすもの

 そういう日本語環境の中にあって、医師に「さん」づけを強制する  ようなことをすればどうなるか?

 私は高校時代山岳部だった。夏の登山では非常にのどが渇く。 ところが、当時スポーツの途中で水を飲むとかえって疲れるという  迷信が、広く信じられていた。今では、スポーツのときに水を飲む  ことは、むしろ積極的に奨励されるべきであることが明らかになっ ているが、高校時代の私は本当に水を飲むと疲れると信じていた。 しかし、暑熱にあぶられながら山を登ったときにのど越しに味わう  水は無上の甘露であり、当然のことながら水を飲んだほうが疲労 も少ないのである。そういうことを繰り返すと、自分はなんとなく 後ろ暗いことをしているかのように、引け目を感じたりしてしまう。 

 暑いときに水を飲むなという迷信は、全国に行きわたっているが、 この迷信がどこから生じたかという研究をした人もいる。江戸時代 の養生訓など見ると、暑熱の時期には水を十分にとることが大切  だと書いてある。ところが、昭和初期には生理学の本に堂々と、  「のどが渇いて仕方のないときに急に水を飲むと、体が急激な変  化についていけず、体調を崩すもとだ」などと書いてある。 

 どの時点で変化が生じたかを追求すると、どうやら日清日露の 戦役のあたりかららしい。戦争中、外地で生水を飲んで病気にな  る兵が続出した。そこで水を飲まずにのどの渇きに耐える訓練を  兵に施そうとしたらしい。戦時に兵に衛生的な水を十分に供給で きる体制をつくろうとするのでなく、兵をのどの渇きに耐えられる ようにしようとするあたりが、いかにも戦前の日本的発想で、こう  いうところが後の太平洋戦争の遠い敗因になったようにも思える 話ではある。当初は生水を飲むと病気になるから飲まない訓練を するのだと説明していたのかもしれないが、それでは隠れて水を 飲む命令違反が横行したのだろう。そこで水を飲むとかえって疲 れるということにしたのかもしれない。

 言語学者で、仮名遣いの改訂、漢字制限、ローマ字の使用など を検討した上田萬年(かずとし)は、東北方言根絶のために「東北  発音矯正法」(明治42年、楽石社発行)を著わしている。それに よると、東北方言を矯正できないのは舌の使い方がうまくできない からであり、そういう人間は舌小帯短縮症であることが多いから、  舌小帯切除術をしてしまえということを主張している。東北方言を 話すのは肉体的欠陥者ということになったわけである。あるいは、  当時は政府の恣意的命令に科学的根拠があるかのように主張 すると、学者として出世できる風潮があったのかもしれない。 

 人間は幼児期には両親のしつけに従って過ごすが、思春期に 自我が形成され始めると、自我に対する規制に反発するように なる。さらに大人になると、自我のなかに自我を見つめ反省する 自我が形成され、欲望と意思との宥和がはかられるようになる。 フロイトは、この自我のなかにあって自分の意思をコントロール  する自我を、「上位自我」と呼んだ。これはつまり素朴な言い方  をすれば良心のことである。

 ところが、非合理的迷信が、もっともらしい理由付けを持って、  この「上位自我」に入り込むと、非常に困ったことになる。良心に 従ったのでは、自然的合理的欲求は満たされない。良心に反す  ること自体に欲求の充足を感じたり、本来自然的合理的な欲求 を良心に反することと感じてしまって、非常な罪悪感を抱いたり  するような病的自我ができることにもなりかねない。東北方言を 矯正することが日本国民として正しいことであり、矯正できない 自分に欠陥があるかのように感じた東北人が、東北方言を笑い 者にされて自己嫌悪のあまり自殺したりするようなことも起こる。

14 センセイ文化撲滅のもたらすもの

 新聞社が「さん」で敬称を統一したい事情はよくわかる。だが、 それを一般社会に広めるのは無理がある。

 医師や教師を先生と呼ぶのは、幼いころからのしつけである。  大人になって、それは医師の権威主義の象徴であり患者との  間に垣根を設けるものだからやめろと言われても、無理である。

 その無理を押し通そうとすればどうなるか?医師と患者の間の 垣根が消えるかどうかは大いに疑問だが、「先生」が口をついて 出てしまう世代と「さん」に慣れた若い世代との間に垣根ができる ことは間違いないだろう。「先生」が口をついて出てしまうような人 は、強制的拘束と感じながら「さん」を使うことになる。あるいは、 新聞社の非合理的恣意的意見を信じ込んで「さん」づけが自分の 良心に照らして正しいと信じてしまうと、どうなるか?つい「先生」 が口をついて出てしまうような人は、やってはいけないと思って いることをついついやってしまうわけで、自己嫌悪や罪責の念に さいなまれる。

 また、社会の広い範囲で、医師を先生と呼ぶ習慣は承認され ているから、「さん」づけが場違いなときには「先生」を使わざる を得ない。この場合、良心と処世術を平気で使い分けるような 恥知らずな人格が形成されていくことになる。さらに、「さん」づけ が平気な若い世代なら、古い世代を古い因習にとらわれている と、馬鹿にするような風潮が蔓延することになるだろう。

 だが、医師や教師に一般人と異なる敬称をつける伝統は、 どれほど大きな社会的混乱を起こしてもやめなくてはならない ような弊害のある伝統なのだろうか?

 塩野七生著「ローマ人の物語」によれば、古代ローマのカエ サルは、医師と教師を優遇することでローマの繁栄の基礎を 築いたそうである。医師と教師を国民全体で敬うことは、洋の 東西を問わず、国の平和と安定の基礎である。 

 私自身、卒業して初めて「先生」と呼ばれたとき、非常に照れ くさい気がした。

 落語家も、初めて真打になって師匠と呼ばれるようになった とき、照れくさくて仕方ないらしい。そういうとき、落語家は先輩 から、こう言われるそうである。 「師匠という呼び方で、自分が相手より高いところにいると感じた のではいけない。真打はゴールではなくスタートなのだ。師匠は 励ましの言葉だと受け取って、自分でこれから師匠と呼ばれて も恥ずかしくないように努力していかなくてはいけない。」

 医師に対する「先生」もそういう意味に受け取って、先生と 呼ばれても恥ずかしくないように、人格識見を高める努力を いつまでも続けることが大切なのだと思う。

15 おわりに

 敬語については、どの日本語文法書も、相当なページを割い て解説している。拙文から、普段使われている日本語の法則 について興味が湧き、もっと詳しく知りたいという方のために、 末尾に参考文献を挙げておく。

 しっかりした敬語の使い方を学ぶことは、日本人社会では、  きちんとしたマナーを身につけていると受け取ってもらうために、 大切なことである。

 私たちの生活は、いろいろの領域を持ち、立体的な形を 取っている。それに対応して、官庁では標準語が自然に口を ついて出て、診察室では田舎から来た患者さんには自然に 方言が出て、中学時代の恩師に久しぶりに会ったときには、 長い人生をかけて習得した洗練された敬語が自然に口を ついて出るように、練習しなくてはならない。  それが語学の学習ということだと思う。


参考文献 

丸谷才一「日本語のために」(新潮社)
井上ひさし「私家版日本語文法」(新潮文庫)
大野晋「日本語練習帳」(岩波新書)
大野晋「日本語の教室」(岩波新書)
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」(講談社学術文庫)