『センセイ』文化を見直そう

みなみ整形外科クリニック 三浦由太


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 テレビや新聞で医師や大学教授が「さん」づけで呼ばれている。

 ある新聞記者は、このマスコミの潮流に乗って、医師に対する敬称として「先生」を用いるのは、医師の権威主義的意識に基づくもので、そういう敬称を用いることが患者が医師にものも言えないような雰囲気をつくり出すのであり、患者を大切にしようとするほどの医師ならば、すべからく「さん」づけに改めるべきだと言い出した。

 私は別に偉ぶるつもりはないが、初対面の人に名刺を渡して「さん」づけで呼んでくださいとは言えない。秋田でそんなことを言ったら、何かおかしな宗教団体の頭の変な医者かと勘違いされそうである。医師に「先生」をつけるのは、日本語として自然なのである。

 敬称の変更で、人間関係は変わるものではない。医師が、初対面のときに「さん」づけで呼んで下さいと患者に親しみを込めて言ったところで、初対面の相手と親しくなれるはずがない。

 敬称を新聞社が勝手に変更してよいという考えには、人間関係よりももっと深い意味がある。

 その記者自身、医師に電話をするときにはつい「先生」と言ってしまうそうである。なぜそうなのか、それが日本語の特性なのだということに彼は思い至らない。言葉は勝手に変更できるものではない。日本語を勝手な思いつきでいじることは、実は日本人の精神の深いところをいじることであり、言語の体系が傷つくと、物や事をそれなりに組織的に動かし運用していくはたらきに歪みが生じ、全体が雑になる。

 衛星の打ち上げ失敗、ウランをバケツで運ぶ、原子炉のひび割れ事故を十年にわたって隠蔽、JRでは速度違反が常態化していた・・
このような最近の社会現象に現れた、文明の正確な、精しい理解、把握力に欠けた日本人の行動は、実は日本語を正確に、的確に読み取り、表現する力の一般的な低下と相応じていると思う。

 新聞記者は日本語を扱うプロと言うべきであろうが、私としては、新聞記者が日本語を勝手な思いつきで変更しようと言い出す現状に、今日の日本の危機的状況の一つの要因を見る思いがする。